ストップ➡止まる、止まれ
【カタカナ言葉は、われらの日常に深く浸透し切っている。まあ、そういうものなんだから、仕方ないじゃないか、何がいけないんだ、という声が聞こえてきそうだ。ここには、われらはいったい何者なのか、という、根源的問いかけが横たわっている。 もろみ五郎】
知識人「先日の日曜日、うちの前の道を、小さな子を連れた若い母親が歩いていた。子供が急に走り出してね、驚いた親がこう叫んだんだな。
〇〇ちゃん、ストップ。 」
文化人「で、どうなったんですか」
知識人「その子はきっちり立ち止まったよ」
文化人「もしもそのとき、親が『止まって』って言ったらどうなったでしょうね」
知識人「そのまま走っていったかもしれんな」
文化人「現代の怪談ですねえ、そうなると」
知識人「民族の恥、と言ったら、言い過ぎだろうか」
文化人「少々おおげさな気もしますが、じゅうぶん理解可能ですよ、その言い方なら」
知識人「ストップ、も、止まって、も、言いやすさとしてはほぼ同等だと思うのだが、まあ、ことはそんな問題ではないからなあ」
文化人「教育ですかねえ、やっぱり」
知識人「そういうことになるんだろうなあ。でも、あの母親、せいぜい30歳前後だ。てことはだな、1990年代の生まれだろう。あの恥ずべき異常なる好況の去った後だ。日本語の乱れということがさかんに言われ出したのは、もっともっと前だろう」
文化人「つまり、親自身が、乱れた言語環境のなかで育った、ってことですよねえ。それじゃ、子に教えるなんて無理ですよね」
知識人「そもそも、正しい日本語を教えよう、との認識が、現代日本人のなかにあるのかどうか。実に疑わしいとわたしは思うんだがね」
文化人「同感ですねえ。相手に伝わればいい、というのが、現代の言語感覚ですからね。言葉は民族固有の文化遺産であり、次代に継承すべき財産だっていう意識を、持ってる人がどれだけいるやら」
知識人「そうなんだな。そういった認識が大切だとの考え方は、誰かが教えないと身につかないものだろう。なかには、読書などで身につける子供もいるだろうが」
文化人「そんな子には、教える必要ないでしょう。本がなくても、自力で何か見つけますから」
知識人「止まる、という言葉は、日常生活のなかでひんぱんに起こる動作をあらわしたものだよな。動く⇔止まる。一日二十四時間、ずっと繰り返される現象だろう。これが外来語になってしまうのは、どうなんだろうね。かなり深刻な状況だとわたしは思うんだが」
文化人「まあ、しょっちゅうなされる動作だから、よけい使いやすいというか、使う機会が多いですよね。それだけ定着も早いでしょうねえ」
知識人「止まる、は基本動詞のひとつだ。それが舶来語にとってかわられるというのは、民族として、深刻に受け止めねばならない事態だろう」
文化人「まあ、ちょっと見渡せばいっぱいありますけどねえ、そんな例は」
知識人「そういうのを地道に拾って論ずるのが、このサイトの役割りなんだろうなあ」
もろみ五郎「そういうことだ」
文化人「五郎氏はどう思うんですか、基本動詞が舶来化してしまう事態について」
もろみ五郎「君たち同様、深刻に受け止めておる。だからこの場をもうけたのだ」
知識人「前回にも出ましたけど、言葉だけ議題にしても、改善の糸口もつかめないでしょうね。わたしたちの在り方そのものを問わなきゃならないんだから」
もろみ五郎「その通りだ。当サイト上でいろいろな例を取り上げ、一見したところは些末にしか思えぬ議論を繰り返す。そうしているうちに、方向性が少しずつ見えてくるはずなのだ。まずは話し合いの場に出さないことには、文字通り話にならぬであろう」
文化人「そうですよねえ、てことはですね、ぼくらって、けっこう重要な役割を担ってるって考えていいんでしょうか」
もろみ五郎「その通りだ。いずれは、幕末の志士たちにも劣らぬ使命を帯びることになろう。それまでじっくり、着実に、力を蓄えていこうではないか」
知識人「そうですね、地味ですけど、がんばりますか」
文化人「地道な作業になりますけどねえ」
もろみ五郎「われら庶民の暮らしとは、総じて地味で地道である。肝に銘じよ」
(了)
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